【弱者を抹殺してもいい】という考え方に思うこと

【弱者を抹殺してもいい】という考え方に思うこと

メンタリストDaigoさんと植松聖(さとし)被告

先日、衝撃的な文字が飛び込んできた。
その文字を書いたのは、
メンタリストDaigoさん。

「ホームレスの命はどうでもいい」
「生活保護の人たちに食わせる金があるんだったら、猫を救ってほしいと僕は思う」
「自分にとって必要もない命は軽い。だからホームレスの命はどうでもいい。正直、邪魔だし、プラスにならない」

など、
その表現は、彼の一部なのだろうと思っているし、
商売としての戦略も含まれているのだと思うが、

強烈な文字の羅列は思ったよりもショックを受けた。

世間が
「これは彼のエンターティナーだ」
と受け流せなかったのは、
想像よりもショックを受けたからではないかと思う。

彼のファンでもない私でも、
少なからずショックを受けたのですから、

彼のファンたちや、
彼の言葉に救われてきた人たちの中には、
もっとショックを受けた人もいたのではないだろうかと想像している。

そして、
メンタリストDaigoさんの発言をみたとき同時に、

障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が刺殺された事件

を思い出した。

この事件の植松聖(さとし)被告は、

「意思疎通が十分にできない障害者には人権がない」
「知的障害のある人は、生きる意味がない」
「社会のためにやらなければならなかった」

など、
自分にとって重要ではない存在や弱者を抹殺するべきだという考え方という意味では
メンタリストDaigoさんと同じにおいを感じてしまった。

自然界は「弱肉強食」ではない

このようなニュースを見ると、
昔、Yahoo知恵袋で見つけたやりとりを思い出す。

 

【質問内容】

弱者を抹殺する

不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思います。
自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。

でも人間の社会では何故それが行われないのでしょうか?

文明が開かれた頃は、種族同士の争いが行われ、弱い者は殺されて行きました。

ですが、今日の社会では弱者を税金だのなんだので、生かしてます
優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのですか
今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。

人権などの話を出すのは今回はお控え頂ければと思います。

このような質問に対して、
ベストアンサーを出した人がいる。

 

【ベストアンサー】

え~っと、、、よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません

弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません

虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています

***

自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です

個体レベルでは、最終的に全ての個体が「喰われ」ます
全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、必ず死にます
個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありません
ある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです

種レベルでは「適者生存」です
この言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません


「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです


(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)

そして自然というものの特徴は、「無限と言っていいほどの環境適応のやり方がある」ということです

必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります
多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、
あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り

「適応」してさえいれば、強かろうが弱かろうが関係無いんです

そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです

10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります

「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります

人間の生存戦略は、、、、「社会性」

高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する
個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる”弱者”です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です

どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の”弱者”を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します
人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました

生物の生存戦略としては大成功でしょう
(生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)

「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ
あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です

遺伝子によって発現されるどういう”形質”が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません
だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです

(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)

アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね
ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです

その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです

だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです
「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです

我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです

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