かおるの徒然草

大好きだった父親

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私の父のことを少し書こうかなと思います。

私の父は、鹿児島県で生まれ、集団就職で名古屋に来たと言っていました。
それも名古屋を目指したのではなく、手持ち金で行けるのは名古屋だったと。
名古屋に出てきた時には所持金が電車賃でほぼ消えてしまったので、住み込みで賄い付きのケーキ屋で働いたとも言っていました。私が物心ついたときには鍛冶屋の職人だったため、「ケーキ屋?想像つかない」と思ったのを覚えています。

普段は無口。飲むと同じことを何度も話すという典型的な職人気質だったと思います。気性は荒いというよりは、機嫌が悪くなると手をつけられないという感じかな。母親ともよく喧嘩していた記憶があります。

でも、かっこいい父親だったんだよね。私は大好きだったんです。どちらかと言えば、父親っ子といいますか。

小さい頃は引っ込み思案だったので、父親にべったりでした。川にキャンプに行ったり、花火をみに行ったり、日の出を見に行ったり、こどもの日は必ず遊園地へ連れて行ってくれていました。とにかく、色々なところへ連れ出してくれた父親でした。鹿児島へも車で帰ってたし。そんな長距離なお出かけになると、車をフラットにして私と妹が楽な旅になるように色々な工夫もしてくれました。わからないことは何でも父親に質問していました。例えば、高速道路で渋滞になったことがありました。「お父さん、この渋滞の先頭はだれなの?」と聞くと、「ちょっと待っとれ」としばらく黙っています。そして、渋滞が終わりの頃になると、「もうすぐで、かおるが渋滞の先頭だぞ!」と教えてくれます。欲しかった答えは違っていましたが、それでも嬉しくなりました。

そんなユニークな父親です。

スーパーマリオブラザーズというファミコンをご存知の方は、私と同年代かそれよりか上になると思いますが(笑)、ある晩の夜中、家族中が父親に叩き起こされました。何事かと思ったら、「全部クリアしたぞー」と満面の父親が。「いやいや、眠いし、明日の朝でもよくないかい?」と思いましたが、家族でクリア画面を見せられたのを覚えています。

そんなおちゃめな父親です。

とにかく新しいもの好きで、私が若い頃からパソコンが苦手にならなかったのは父親のおかげだと思っています。ある日、我が家にpc8800シリーズがやってきました。なんだかわからないが、すごく高いものだということはわかります。近所の電気屋で月賦(今はローンという)で母親に相談なく買ってきてしまいました。ダメだと言えば、父親の機嫌が最悪になるため、母親は怒りながらせっせと月賦を払い続けました。まぁ、しばらくは夫婦仲が険悪でしたが今じゃ笑い話です。そんなことが度々あったため、母親はへそくりなるものをせっせと貯めるようになったと大人になってから母親から聞きました。

そんな欲望まるだしの父親です。

中学生のころ、綺麗なペンが増えお小遣いでそういうものを買うことができるようになったため、私はあらゆるところに書きまくってました。母親からはよく叱られていたのですが、それを見ていた父親が、ある休日に自分の部屋から出て行けというのです。何事かとみていたら、おおきなベニヤを壁一面にはりつけ、そこに書きやすいような素材のものを貼り付けてくれ、「いくらでも自由に書け!」と言ってくれたのです。父親は、私のやりたいことを危険なことでないかぎりやめろと頭ごなしに叱ったことは記憶にありません。とにかく、それをやるためのルールを示し、その範囲ないで自由を発揮しろという教育だったように思います。

そんな温かい父親です。

最後の思い出になります。
小学生のころ音楽部に入り、トランペットを担当しはじめました。名古屋では名古屋祭りというイベントがあり、名古屋の街を音楽隊として参加しました。その当時、かなりの引っ込み思案で両親も心配するほどでした。ですから、そんなに多くの人前に出ることが父親は嬉しかったのでしょうね。トランペットを買ってくれ、さらにビデオカメラを買い、大きなビデオカメラで名古屋の街をおっかけて撮ってくれました。

そんな愛情深い父親です。

色々書きながら思い出していました。
父親が亡くなってもう20年以上が経ちました。
なので、月日と共に記憶がどんどん美化されているのかもしれません。

ここまで大好きな父について書いてきましたが、
私にとって父親の最高の功績は、
父が亡くなる間近の出来事です。

母親は父親が大好きでした。

父親は昔の人で九州男児ですから子供の前で母親に対する愛情を示していた記憶はありません。(母親は大好き感を出していましたが。)

そんな母を父は9ヶ月前に先にあの世に見送っていました。

母の後年は、幸せだと言えるものではありませんでした。
それは父の男としての魔が刺したことに原因があったようです。
(聞いたことなので事実かどうかは私にはわかりませんが)
もちろん夫婦のことは夫婦にしかわかりません。

このあたりのことを言葉にすることはとても難しいですね。

でも、入院している父と世間話をした看護師さんが、

「お父さんは、お母さんが一番だったって」と。

看護師さんはほんわかした何気ない言葉だったのかもしれない。

でも、私は父にものすごく腹が立ったんです。

横たわっている父親の背中を見ながら、

「なんでお母さんが生きているときに言わなかったの!」

と心の中で叫んでいました。

母が乗り移ったんじゃないかと思うほど、さまざまな感情が渦巻いて、泣いちゃいけないと思えば思うほど溢れてくる。怒り?悲しみ?わからないけれど、溢れ出てくる色々な感情。

父が亡くなって、何年かしたときにフッと思ったんです。

「両親が愛し合っていた」

と知れたことは、

最後に私に与えてくれた父親からのギフトだったのかもしれない、と。

最後まで読んでくれてありがとうございます。

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