私と父の29年の物語ー最高のギフトを渡してあの世へー
私の父のことを少し書かせていただきます。
父は鹿児島の生まれでね、若い頃に集団就職で名古屋に出てきたそうなんです。
でもね、名古屋を目指したというよりも、「手持ちのお金で行けるのが名古屋だった」ってよく言っていました。
電車賃でほとんどのお金がなくなってしまって、着いたときにはほぼ無一文。
それで、住み込みで賄い付きのケーキ屋さんに働き口を見つけたんだとか。
私が物心ついたときには、すでに鍛冶屋の職人だった父。
だから「ケーキ屋で働いていた」なんて話を聞いても、全然イメージが湧かなくて、「えっ?ほんとに?」と不思議に思ったのを覚えています。
父は普段は無口でね、飲むと同じ話を何度も繰り返す、そんな典型的な職人気質だったと思います。
気性が荒いというよりは、機嫌が悪くなるともう誰も手がつけられない、そんな感じかな。母ともよく喧嘩していたのを覚えています。
でもね、それでもやっぱりかっこいい父親だったんです。私は本当に大好きで、どちらかと言えば父親っ子でした。
小さい頃の私は引っ込み思案だったから、いつも父にべったり。
川へキャンプに連れて行ってくれたり、花火を見に行ったり、日の出を見に行ったり。こどもの日には必ず遊園地へ連れて行ってくれました。とにかく、いろんなところへ連れ出してくれる父でした。
鹿児島へも車で帰省していたんですけど、長距離の旅になると、車の座席をフラットにして、私と妹が楽に過ごせるようにあれこれ工夫してくれました。
わからないことがあれば、何でも父に聞いていました。
あるとき、高速道路で渋滞にはまったことがあって、「お父さん、この渋滞の先頭はだれなの?」って聞いたんです。すると父は「ちょっと待っとれ」と黙ってしまって…。そして渋滞の終わりに近づいたとき、「ほら、もうすぐで、かおるが渋滞の先頭だぞ!」って教えてくれるんです。
私が欲しかった答えとは違っていたけれど、なぜかそれがすごく嬉しかったのを覚えています。
──そんなユニークな父でした。
スーパーマリオブラザーズっていうファミコンのゲーム、ご存じの方は…きっと私と同年代か、それより上かもしれませんね(笑)。
ある晩のこと。夜中に突然、家族みんなが父に叩き起こされたんです。
「いったい何事?」と思ったら、父が満面の笑みで「全部クリアしたぞー!」って。
いやいや、「それ、明日の朝に教えてくれてもよかったんじゃない?」と思いながらも、眠い目をこすりながら家族でテレビの前に集められて、クリア画面を見せられたのをよく覚えています。
──そんなおちゃめな父でした。
とにかく新しいもの好きで、私が若い頃からパソコンが苦手にならなかったのは父親のおかげだと思っています。ある日、我が家にpc8800シリーズがやってきました。なんだかわからないが、すごく高いものだということはわかります。近所の電気屋で月賦(今はローンという)で母親に相談なく買ってきてしまいました。ダメだと言えば、父親の機嫌が最悪になるため、母親は怒りながらせっせと月賦を払い続けました。まぁ、しばらくは夫婦仲が険悪でしたが今じゃ笑い話です。そんなことが度々あったため、母親はへそくりなるものをせっせと貯めるようになったと大人になってから母親から聞きました。
──そんな欲望まるだしの父でした。
中学生のころの私は、きれいなペンを集めるのが大好きでした。
お小遣いで少しずつ買えるようになって、嬉しくてあちこちに書きまくっていたんです。
当然、母にはよく叱られていました(笑)。
でも、その様子を見ていた父が、ある休日に突然「部屋から出ろ」って言うんです。
「えっ?何が始まるの?」と不思議に思いながら待っていると──
父は大きなベニヤ板を壁一面に貼り付けて、その上に書きやすい素材を敷いてくれました。
そして一言、「ここなら、いくらでも自由に書け!」と。
父はね、私がやりたいことを頭ごなしに否定したことなんて一度もなかったと思います。
危ないことじゃない限り、まずは「どうやったらできるか」を一緒に考えてくれる人でした。
その上で「これがルールだから、この範囲で好きにやれ」と、自由の枠を示してくれる。
──そんな、子供のやりたいことを尊重してくれる父でした。
最後の大きな思い出です。
小学生のころ、私は音楽部に入り、トランペットを担当することになりました。
名古屋には「名古屋まつり」という大きなイベントがあって、その音楽隊として街を行進することになったんです。
当時の私はとても引っ込み思案で、人前に出るのを両親も心配するくらい苦手でした。
だからこそ、大勢の人の前で演奏することが、父には本当に嬉しかったんだと思います。
父は私のためにトランペットを買ってくれました。
それだけじゃなく、当時はまだ珍しかった大きなビデオカメラまで手に入れて、名古屋の街を私の姿を追いながら撮影してくれました。
──そんな、愛情深い父親でした。
こうして書きながら、いろんなことを思い出しました。
父が亡くなって、もう25年以上が経ちます。
だからこそ、月日の流れとともに記憶が少しずつ美化されているのかもしれません。
ここまで大好きな父のことを書いてきましたが──
私にとって父の「最高の功績」は、亡くなる間際の出来事にあります。
母は、父のことが大好きでした。
でも、父は昔気質の九州男児。
子どもの前で母に愛情を見せることは一度もなかったと思います。
(母は隠さず「大好き」が伝わる人でしたが。)
そんな母を、父は9か月前に先に見送りました。
母の晩年が決して幸せばかりではなかったのは、父の過ちが原因だったとも聞いています。
もちろん、夫婦のことは当人にしかわからないものですが…。
このあたりを言葉にするのは、本当に難しいですね。
でも──入院していた父と世間話をしていた看護師さんが、
ふと私にこう言ったんです。
「お父さんね、“お母さんが一番だった”って話してくれましたよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず腹が立ちました。
横たわる父の背中を見ながら、心の中で叫んでいました。
「なんで…お母さんが生きているうちに言ってくれなかったの!」
母が憑依したんじゃないかと思うくらい、感情が溢れて止まらなかった。
怒りなのか、悲しみなのか、自分でもよくわからない。
ただただ涙が込み上げてきて、止められませんでした。
──でも、父が亡くなって数年経ったある日、ふと思ったんです。
「両親は本当は愛し合っていた」
そのことを知れたのは、父が最後に私にくれた大切なギフトだったのかもしれない、と。
父からもらったものは、数え切れないほどの自由と学びと大きな愛。
そのひとつひとつが、今の私を形づくっています。
